無名有力

新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

新年を迎え、決意新たにという方も多いと思います。

そして、この時期、いつも思うことがあります。

それは、新年に固めた決意を今年の12月31日でさらに磨けているのかどうか?です。

というのも、初心忘れるべからずと言われますが、本来はそうではないと考えているからです。

初心をさらに超えるような生き方をしていく思いを大切に、365分の1を積み重ねていきたいものです。

さてさて、では本題はこれから。

朝起きて、水道の蛇口をひねります。

当たり前のように水道から水が出てきます。

ここで本当にありがたい気持ちになれればいいのですが、自分はむしろその逆です。

水道から水が出ない、あるいは、水道管が毎日のように破裂するような事態になれば、ソッコーで不満タラタラになってしまうことでしょう。

そこでふと思うのです。

世の中の大多数の仕事って、そういうものではないのかな?と。

感謝され、喜ばれれば、人としてうれしい気持ちになります。

ところが、感謝されもせず、喜ばれもせず、それがただ当たり前のこととして流される。

当たり前と思われることほど悲しいことはないと、以前、どなたかがおっしゃっていましたね。

しかし、世の中のほとんどの仕事は、当たり前に思える平穏な日常をつくりだすことに尽くされていきます。

むしろ感謝、感激、感動などといった非日常的なことは、異例なのではないでしょうか?

ところが、そんな非日常的なことが、どうやら憧れとされているような事象が多くなっているような気がするのです。

今は誰もが情報を簡単に発信できます。

まるで芸能人であるかのように非日常的なことに自分を浸そうとすることができます。

であればこそ、自分らしくとか、自分が主役とか、自分の幸せなどということがよく言われます。

しかし、本当に大切なのは自分ではないように思えるのです。

自分を主役に置いた途端、世の中がおかしなことになる。

これは、一家の主として、あるいは事業者を側面から支えていく一個人事業主として、痛切に自分自身が思うことです。

また、公職の長などに就き、自分が主役などと考えてしまえば、組織は崩壊していきます。

そして、一見、幸福に思えることを追いかけることほど馬鹿に見えることはないのです。

薄っぺらい憧れは毒にしかなりません。

自分らしくとか輝きたいとか、自分が主役とか、そうしたややもすると耳触りの良い言葉に大きな魅力を感じてしまうこともあるのでしょう。

しかし、先ほども書いたように、世の中のほとんどの仕事は自分が脇役に徹することで世の中がうまく回り出していくものではないでしょうか?

独立し、起業すればかっこいいとか、素晴らしいとか、そう思われてしまう誤解もなきにしもあらず。

ところが、僕のような個人事業主だろうが、会社の社長をやっていようが、主役は自分ではないのです。

いい仕事をしていくとは、陰に徹していくことそのものだと自分は考えているからです。

当たり前の日常を生み出すことに誇りを持てるのかどうか?

感謝されなくとも、仕事そのものの中に生きがいを感じられるのかどうか?

そうした感覚がとても大切に思えてなりません。

例えて言えば、テレビで騒がれるアイドルはほんの一握り。

その一握りのために膨大な数の人間がそこに関わっているわけで、そのうちの一人になることに心底納得し、満足することが、本当の豊かさだと僕は思います。

その豊かさに気づけたとき、水道の蛇口をひねったときに有難さが感じられてくるような気がしてなりません。

誰によってつくられたかわからない建物があり、誰が関わったか知られていないプロジェクトもあることでしょう。

でも誰によってということよりも、そこに関わった誇りに密かに喜びを感じられれば、人生は成功だと言えるのではないでしょうか?

脚光を浴びることに価値が見出されがちな風潮なのでしょうが、そこには本当の幸福はないように思えます。

むしろ、己の幸福を求めるほど、人間は不幸になってしまうものなのでしょう。

そこに気づけないようであれば、起業なんてしてもしょうがないし、商売もうまくいくこともありません。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。

日本人としての精神性が失われつつある今の世であればこそ、これをやる価値があるというものでしょう。

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