落書きのように気楽に遊びで練習になるような描く行為をすべき

2017年10月27日のツイート

やっぱり原稿が面白ければ必死にやるゲームは要らない。必死で面白いのは原稿なのだ。その合間に欲しいのは清涼剤のような息抜きだ。息抜きでゲームをやるというのは自然の話。では純粋に息抜きのためにゲームをやるとしたら、当然、必死さの要求されないそのようなタイプのものが相応しいことになる。

「息抜きでゲームをやる」のは、実際に本当にそのつもりでやるというのは、実は生まれて初めてかも。今まで何十年も生きてきて、息抜きでと言いながら、本人はすっかり息抜きのつもりでいながら、その実態は「必死に楽しむためにしかゲームをやったことがない」のだ。自覚がないというのは怖いことだ。

私は絵の練習というものをしたことがないつもりなのだが、結局落書きが練習になってただけである。つまり練習は必要というわけだが、落書きはノートにシャープで描くのがほとんどだった。つまりペンとカラーの練習はほとんどされていない。これが問題だったのだな。

原稿をいくら描いたとしても、落書きと比べたらわずかなものである。それだけ落書きはしてきた。あと、液タブで描くのはもっと少なくなる。というわけで、やはり練習量が圧倒的に足りていないのだ。紙にシャープで描く感覚だけが頼りで、その感覚の応用でなんとかしている状態なのだ。

それでなんとかできるならそれでいいではないかとは思うわけだが、やはり問題がある。楽しくない。落書きが楽しいのは紙にシャープで描くのにつまづくものが何もないから。液タブにブラシツールで描くのはつまづきまくる。とても紙に描くように一発で描けない。修正しまくって体裁を整えるのに必死だ。

しかし慣れてきて思うように描けるようになってくると楽しくなってくる。落書きのように気楽に遊びで練習になるような描く行為をすべきだったと実感している。これを本番で緊張しながら慎重に描いても練習にならないのだ。楽しくないし。まずは楽しく描けるように楽しく練習することが先決だったのだ。

急いで本番の原稿描くより遊びで4コマ描く方が先だったのだ。まさに急がば回れ。今頃気づいても遅いのだが、気づいてよかった。

漫画を描くことをちゃんと趣味にするというのは大事なことだったのだ。落書きという中途半端なことがいくらできても、できないよりマシだが中途半端なのである。一番の趣味がゲームで、一番どころか趣味の中での割合のほとんどを占めていた。ゲーム時々落書き、極僅かに漫画といった体たらくであった。

思い起こせば、高校になるまでファミコンを買ってもらえなかったのはすごくよかったと思えるわ。中学までは落書きが一番の暇つぶしであり、いつか漫画を描くためにペンでも描けるようにしていた。ゲームの魅力に逆らえなかったのは無理もないことだが、タイムスリップしてあの頃の自分を説得したい。